最高にカッコ悪くて、最高にカッコいい 『ナナメの夕暮れ』

好きな人ほど、会ったときに思いの丈を伝えられない。
好きなものほど、その度合いを表現しきれない。


どこかで誰かがこんな感じのことを言っていました。
まさにそれです。


今回取り上げるのは、文藝春秋から2018年発行、オードリー若林正恭著のエッセイ
ナナメの夕暮れ』です。


オードリーのオールナイトニッポンを聞き続け、
十周年記念ツアーにも青森と武道館の2公演参加した“リトルトゥース”な私にとって
この本は買って真っ先に読むべき本だったのですが、もったいないような気がして本棚にしまっておくうちにここまで来てしまいました。



特に強く刺さった所を三つ紹介します。あえて絞りました。

理想の自分にずっと苦しめられてきた。凡才のくせに、センスのある自分、お笑いファンに一目置かれる自分になりたいと夢見ていた

 これほどの人が理想と現実との差異にそこまでもがき苦しんでいる。私は純粋に驚き、少し怖くなりました。
前作、『社会人大学人見知り学部卒業見込み』では(厳密には『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』ですがこっちは旅行記なので別扱い)若き若林さんの苦悩や葛藤がストレートに描かれていました。そこから考えると幾分、殺気のようなものは薄れた印象。

自己啓発本なんか、当然何の役にも立たない。あそこに書いてあるのは人生の茶帯が黒帯になる方法だ。

 自己啓発本についても度々言及しています。成功者がたまたま自分自身にあったルートを探り当てただけだと。確かにと思う反面、私自身日々の推進力として、一流の人から学ぶため自己啓発書に近いビジネス書は読みがちなので心苦しいところ。

 でも今作で、若林さんと私自身とを隔てるラインがはっきりと見えたのです。まだ私の中には「諦め」への抵抗があり、若林さんを「諦め」にたどり着かせた圧倒的な自己否定や「ナナメ」な視点はなかった。『社会人大学人見知り学部卒業見込み』では共感して、頷けるポイントばかり。若林さんが隣にいるかのように感じました。


 けれど『ナナメの夕暮れ』の読後感は「共感」ではなく「決別」に近い。もちろん、これまでもこれからも私はオードリーが大好きです。しかし、若林さんは自分自身の代弁者ではなくて、全く別人だった。それは寂しくもあり、安堵感もありました。



そして三つ目

客の笑い声のデシベル数も脳波の興奮も目の瞳孔の開き具合も求めていなかった。自分と相方の目の瞳孔の開き具合だけを求めていたのである。それは“どうしてもやりたい漫才”である


ナナメの夕暮れ

ナナメの夕暮れ